SASAKA's Memo

消費したものや感じた事のメモです。

風立ちぬ

零式戦闘機の設計者として有名な堀越二郎と、「風立ちぬ」の作者である堀辰雄の人生をミックスした物語だと聞いて、正直全くイメージが湧かなかった。というより、全く意味が分からなかった。


鑑賞しながら徐々に理解できたことは、これは宮崎駿監督の妄想を映画にしただけなんだなということだ。自分が好きなもの同士をくっつけて、2倍面白いものにしよう!いわば映画界のトランスフォーマーを作ろうという発想であろう(トランスフォーマーはすでに映画か)。


反対に言うと、ひとつのモノを除いて、嫌いなものは徹底的に排除される。堀越二郎パートで言うと、戦闘機は描くけど戦争は描かない(資本家や軍人は馬鹿扱い)。堀辰雄パートでは、病に気高く向き合う姿は書くが、死のイメージは描かない。特に奈緒子はクロード・モネの絵画のイメージ(睡蓮、パラソル、蒸気機関車、雲など)とともに、一種の現実感を伴わない形で描かれる。


そして、除かれなかったものとは二郎の眼鏡である。彼からパイロットの夢を奪い去ったはずの眼鏡は、コンプレックスの塊であるはずなのに、常にリアルに書き込まれている。人を創作に駆り立てるものの象徴として、いびつなまでに強調をされているようにすら感じた。二郎が病床の妻を差し置いても戦闘機の設計を続けたように、宮崎駿監督も関東大震災や自身の嫌いな戦争の道具となった戦闘機を魅力的に表現し続ける。二郎が宮崎自身を投影していることは明らかだが、だからこそその声は生粋の演者ではなく、ナウシカ製作を共にした同じ穴のムジナである庵野英明でなければならなかったのであろう。創作のためにすべてを投げ打つ自分の分身として。


町山智浩さんの解説で目から鱗だったのは、本作の音響が主に人の声で作られていることについて「あれは男の子のごっこ遊びの延長だからですよ」と言っていたことだ。確かに僕もミニカーや玩具の飛行機で「ブーン、ブーン」とか口ずさみながら遊んでいたが、あれの延長として捉える事もできる、あくまでも個人的な映画だということだ。


このような個人的な側面の強い映画は、共有体験をもたない観客には全く意味不明の映像となってしまう。僕も彼の妄想っぷりに辟易しながらも、中盤以降は気づけば号泣していた。両サイドの小学生の目も憚らずに・・・。


それにしても、話題になっている煙草の使い方とか軽井沢のホテル(三笠ホテル?)=トーマス・マン魔の山とか、いちいちディテールに感心する。ゾルゲのようなカストルプ氏はなぜクレソンを食べてたの?誰か教えて。