SASAKA's Memo

消費したものや感じた事のメモです。

マーケット感覚を身につけよう

組織や規制の内側で変化を恐れるよりも、市場に出て変化を楽しめる側になるべきである。そのために必要な能力のひとつが、市場での価値に気づくことの出来る「マーケット感覚」であるという主張。

 

一方、その「マーケット感覚」という能力を誰でも訓練によって会得することができるという部分には疑問符が残った。海外でビジネスを学んだ人らしく、具体的な事例(ケーススタディ)がこれでもかと並ぶが、それらはビジネスとして顕在化したものばかりという印象を受ける。その影には同様に挑戦したものの儚くも彼女の目に触れることなく消え去っていった事例も少なからず存在するはずである。

 

序章にて、ANAの競合相手を考える際、通常の論理的思考では他の輸送システム(鉄道や高速バス)や通信システム(テレビ会議)などに到達できないと断じているが、本当にそうであろうか。それらはより高度な論理的思考や情報リテラシーの結果に過ぎないのではないかと感じた。

 

もちろん挑戦しなければ成功も失敗も無いわけで、その意味で行動に移さなければならないという部分には賛同できる。ただ、「マーケット感覚」というスキルが現実的に存在するかのように勘違いしてしまい、チャレンジ精神を発揮して、何かを失っても彼女は何もしてくれないだろう。

 

また組織や規制を「マーケット感覚」の働かないネガティブなものとしているが、市場原理に任せるべきものとそうでないものがあるのだと思う。そして、彼女の言う「変化」によって、その適正が変わってきているだけではないだろうか。航空業界や農業分野もある時期までは行政のリードによって、市場原理とは別のところで進む方が適していたのだと思う。

 

学生や意識高い系(笑)の方が、本書の内容を無批判に信仰してしまうのはいかがなものかとは思うが、全般的には至極まっとうで、当たり前な内容。「リーダーシップ」というスキルの重要性を説く伊賀泰代氏の「採用基準」を思い出した。

 

以下箇条書き。

  • 「マーケット感覚」というネーミングはセンスがない。わざと曖昧な言葉にしてる?
  • なぜタレントはブログでステマをしたのか?
    →「お金以外の価値を重視して」ではなくて、アメブロのビジネスモデルだから。

 

 

ベイマックス

3Dの吹き替え版を鑑賞。3Dと認識していなかったので100円取られてしまった。

サンフランソウキョウって何だよと思っていたが、そんな想いは絵の説得力に早々と吹き飛ばされてしまう。鳥居のデザインの取り入れられたゴールデンゲートブリッジ、路面電車と張り巡らされた電線網、ネオンきらめく坂道など、一見して何か楽しいことが起こりそうと感じてしまうのだ。

 

そしてその期待を裏切ることなく、物語は進んでいく。兄のサポートによる主人公の成長とその兄の死、自身でその憎悪を乗り越える主人公と、まさにストーリーテリングのお手本のような映画で、アクションもしっかりと描かれる。憎しみにまみれた悪役に対して、赦しを悟った主人公がしっかりと勝利する。

 

後に仲間となる4人のキャラクターと武器を紹介するシーケンスと、ビッグヒーローシックスとしてトレーニングするシーンは出来そうでなかなか出来ないさりげなさだ。一度敗れた相手に最後はなぜ勝てたのかというロジックがしっかりあるのが良い(本来普通のことだけど)。

 

文句なく素晴らしいアクション活劇。

 

以下箇条書き。

  • 主人公が何でも作れて万能すぎる。
  • 自分の技術を悪用される訳だが、弱点をついたり強化版を作ったり出来るのでは?なぜ戦闘用でないベイマックスを無理やり改造したのか?
  • 最後の6人がポージングしている絵に出てくる「ベイマックス」のタイトルはミスマッチで興ざめ。
  • クレジット後の「スタンリー・リー」ギャグ5億点!
  • 短編「愛犬とごちそう」観て汚いとかいうヤツなんなの?

イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密

ベネディクト・カンバーバッチがまたもや天才、いや異才を演じた映画。

その演技は確かで、見事に人間らしくない部分と大多数の人と同じ部分を的確に表現し、場面によってその比重を上げたり下げたりしているのを存分に楽しめた。まさに彼は人間なのか否か、表題のイミテーション・ゲームに繋がり、非常に奥の深いテーマ。でもその非人間的な人が我々では創造も出来ないような新しいモノや価値観を作り上げて世の中を押し上げていく。巷で評判のスティーブ・ジョブスもそうであろう。もっと彼の非人間的な部分が取り上げられるべきではないか。映画「スティーブ・ジョブス」では反対に、人間的過ぎる部分として、破綻した人格による周囲を振り回す姿を描いていたが、本作のようなアプローチもあったのかと思う。

キーラ・ナイトレイも良い。いつまでも垢抜けない感じが最高で、現代が舞台のアメリカではきついかもしれないが、19-20世紀の文芸物などにはその存在力が炸裂する。「危険なメソッド」とかも炸裂しまくってた。特に戦争終結後にそれなりの格好でアラン邸を訪れる場面での無理している感とか見入ってしまった。最近口紅の広告塔になっていて良く見かけるが、あのブランドのターゲットはそういう人たちなのだろうか?少なくとも私はターゲットではないので心配してもしょうがない。

そして、暗号解読に成功してからがこの映画の本題。ドイツに暗号解読を悟られないように、対応すべき情報を統計学的に決定する。戦況に大きく影響のない前線は見捨てるという苦渋の選択を「ガッチャマン」のスタッフに観て欲しい。ただ、この辺から技術面の描写が一気に淡白になるのは仕方ないか。表題にもなっているイミテーション・ゲームに至っては映画では多くの人が何を言っているのか分からないだろう。刑事のキャラクターに深みを与えることによって、何とかなったのではないかと思ってしまう。まぁ時間は長くなってしまうだろうが・・・。

 

以下箇条書き。

  • カンバーバッチと「裏切りのサーカス」でのスパイ仲間であるマーク・ストロングがMI6幹部役で登場した時に少し上がる。
  • 国家の最高機密を一介の刑事に喋る?
  • 少年時代の描写が良い。程よいBL感。でも手紙に書いた暗号は簡単すぎるかと。
  • ソ連のスパイ役のアレン・リーチをエンドクレジットまでショーン・アスティンだと勘違い。

イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密

イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密とは編集

 

映画ドラえもん のび太の宇宙英雄記

やはり新作は楽しい。リメイク版はなんだかんだ言って過去作と比べてしまうし、大まかなストーリーも頭に入ってしまっているので余計なところに目が行ってしまう。それに過去作は感性豊かな子供の頃に観たのだからそのハードルはなかなかに高い。

 

しかし、本作はだいたい予測の範囲内の展開と演出が続き、思っていた通りの落としどころに落ち着いた感が強い。子供向けの映画、永遠のマンネリズムと言ってしまえばそれまでだが、これで子供達の心に何か爪あとを残すことができるのだろうか(ひょっとして残しちゃダメなのか)?

 

なぜか企みを独白する悪者、葛藤も無く見知らぬ星の人たちのために命を懸ける主人公達、巻き戻しでリセットされる悲惨な結末。何かひとつでも尖ったこだわりポイントがあればと思いながら見続けたが、残念ながら見つけられなかった。市村正親田中裕二観月ありさなど豪華声優陣を起用しながら、魅力の無い悪役も原因の一端か。田中さん演じるハイドをもっとマイクに寄せて、怖くない外観というコンプレックスのために怖い宇宙海賊を装っているとか、市村正親は遅くに出来た子供がかわいくて仕方ないために、おもちゃとしてダイヤを取り出そうとするとか。悪役に対する愛情がないから、彼らがその後どうなったのかは全く描かれない。

 

かと言って、主人公達に対しても愛情が感じられないのはさらに問題だ。のび太の特技があやとりなのは、ネット状になって敵を締め付けるアイデアを思いついたからだろうし、ドラえもんが頭突きが得意なんて設定は聴いたこともない。のび太の特技が射的でない理由や、しずかちゃんのお風呂好きって特技?という疑問を自分へのツッコミ台詞だけで封じてしまう。

 

最近のドラえもんはそうなのかもしれないが、制止役となるべきドラえもんが一番ノリノリで突っ走るところにも違和感を感じた。

 

あと、せっかく映画の中で映画を撮るという話なのだから、バーガー監督の撮影と編集を経てさっきの演技がどのように「映画的」になるのかという件を入れたら良いのに。当然エンドロールで流れるのかなと思っていたら見事に肩透かしを喰らった。

 

次回作は「ぼく、桃太郎のなんなのさ」のリメイク?

 

以下、箇条書き。

 

  • なんで平和な星に保安官がいるの?
  • 巻き戻しで解決なら、太陽1回壊れちゃってもいいじゃん。
  • あやとりで遊んでいる低学年の子供達と、ポックル星の子供達を同じ声、似た外観にしたら?
  • スピルバーグからバーガーになってると思うけど、バーガーの要素はゴマカメラだけ?スピルバーグ要素は?
  • ロジック無しの「急に強くなりました」はやめようよ。

「意識高い系」という病

いろいろなメディアに掲載された著者の過去の記述をまとめたということで、ちぐはぐなモザイク画のような印象。意識の高い若者を上げたり下げたり、「意識高い系」と「意識高い系(笑)」を突如区別してみたりと主張も一環していないように感じられた。結局は最終章だけ読めば事足りるだろう。自身の承認欲求のためや、現状からの逃げ場としての意識の高い行動は生産的でなく、目の前の仕事や人脈に真摯に向き合った方がいいよという提言であろう。著者の(今考えると)痛い実体験もあり、それなりに説得力のある言葉として読めるが、本当にこれらの提言が必要な層には届くこと無いのだろうな。そう言った意味では「若き老害」の面目躍如といったところであろう。

 

映画 プリキュアオールスターズ 春のカーニバル♪

 シナリオといい、絵といい、全体的に大味なつくりと感じてしまった。

 

 カーニバルと言うことで各プリキュアシリーズによるステージが順番に披露されるがCGはごく一部、Mステ風のやりとりも間が抜けていて(それを狙ったのかもしれないが)、カーニバル感が全く感じられない。普通のシーンも喋っているキャラクター以外は微動だにしないという鉄板の演出。オールスターズはいつも絵柄の異なるキャラクターを共存させると言うことで苦労しているのは分かるが、年の一度のお祭りなのだから予算や工数とは別にもう少し工夫が欲しい。

 

 前述のMステ風のやりとりも含まれるが、随所に見られる乾いたギャグは何回か場内の笑いを誘っていた。このようなパロディや自虐ネタによる笑いが散見されるのは、やはり妖怪ウォッチの影響が大きいのだろうか。劇場版の「妖怪ウォッチ」もそうだったが、細かなギャグの連発はストーリーに自信がない裏返しのように感じられてしまう。ストーリーに深みを持たせる鍵となるのが悪役だが、今回はオリエンタルラジオの二人が演じるオドレンとウタエン。歌って踊れるふたりがキャスティングされているということで、どこかで新境地に達している最近のネタパロディでも入るのだろうと思っていたら、いわゆるアンパンマン的なステレオタイプな悪役で終わってしまったので残念だった。一応ふたりが歌う場面もあるが脈絡がなく急に自己紹介的に歌い踊りだすので、「名前の設定は!」とひとりツッコミを入れてしまった。BL感も流行にのって入れたのだろうが、なかなか良かった。

 

 本シリーズに共通の頑張れば何とかなるクライマックスは相変わらず。今回はミラクルライトが配布されていないので、本当に歌いだしたら何とかなっちゃったと言う感じだけが強調されてしまっている。特に崩壊したハルモニアが戻っていくところは思わず笑ってしまった。プリキュアに限らないが、どうして勝てたのか、どうして困難を乗り切ることができたのかというロジックは、日本のアニメの課題だと思う。悪役の弱点や過失の設定や、臨機応変な対応などシナリオ的にはそう困難でないと思うのだが、テーマ自体が愛や友情、今回で言えば「歌と踊りの力」であるのが原因なのか。絶対神を信仰しているはずの欧米の作品の方が、絶対的な何かに頼らずシナリオライティングされているのが面白い。

 

以下、箇条書き。

  • 春香の緊張(人前で演技が苦手)を克服する具体的なエピソードが欲しかった。
  • モーニング娘かわいそう。
  • エンドクレジットでロングドレスバージョンの市販の衣装着てた子かわいそう。
  • 秋映画の宣伝に独自素材なしで、二の舞の予感。
  • キュアハニーのスピンオフ作品見たい。

 

幕が上がる

 特にももクロのファンという訳ではないが、5人の名前や色、これまでの経歴を知っているくらいのNegiccoとバニラビーンズのファンが「幕が上がる」を鑑賞。

 本広克行監督には散々やられているので、斜め目線からの楽しみ方ができれば良いと思っていたが、「幕が上がる」時には目に涙をたたえていた(こぼれ落ちはしない)。

 主人公の独白で多くの情報が語られるあまり好きではないスタイルだったか、なぜか受け入れていたのは、自分にあまり情報のない高校演劇という舞台と、同じく想像もできない女子高生の気持ちであるせいか・・・。

 また、ももクロの5人には敢えて言及しないが、吉岡先生役の黒木華さんの演技に非常に説得力を感じた。強い意志と部員への愛情、でも非常に不器用な部分。同時にニセ蒼井優などと揶揄していた自分を罰したい気分に。

 天竜源一郎氏が画面に顔を見せる度に、思わず顔がほころんでしまう。娘役のしおりんが滑舌悪いのは遺伝というネタが出てくるのを確信していたものの見事にスルー。それでも満足の配役。

 ただ、本筋が比較的オーソドックスな演出で語られるので、そのリアリティラインを超えてくる本広監督らしい演出に少し違和感を覚える部分があった。川西さんの両親の過剰な演技や細かいももクロネタ(なぜ相手の飲み物を取る必要があったのか)、最後の豪華な家族達の登場などノイズでしかない。

 また、断片的に挿入される本物の高校演劇は明らかに主人公達の作品とは異なるものであり、全国大会という彼女達の目標の信憑性がゆらいでいたのも確か。それでも、ももクロというがむしゃらに苦難を乗り越えながら今のポジションを築いた希有なアイドルと、平田オリザという演劇の鬼の邂逅は、確かに単なるアイドル映画というだけでは済ますことのできない、新たなベクトルを示してくれているように思う。